東海道を歩いてきました(その16)(良太郎)

良太郎です!

早いもので、もうすぐ一年の半分が過ぎようとしています。
最近まで夜は冷えるだの何だの言っておりましたが、最近は昼間の気温も30度を超え、夜も過ごしやすくなって参りました。
いよいよ夏の到来ですね!

それでは毎度お馴染みの、良太郎東海道シリーズ。
日本橋を出てから前回の蒲原までは比較的大きな街の連続でしたが、今回と次回は都市と都市の間、束の間のブレイク区間となりそうです。

16.由比(ゆい)静岡県静岡市

由比宿に着きました。山と海に挟まれた、小さな宿場です。人口も東海道の宿場の中ではかなり少ない方でした。漁業と製塩が中心産業で、駿河湾で獲れたサザエやアワビがそのまま壷焼きや刺身となって由比宿の名物になっていたようです。
…今だとこれらは贅沢品なんですけどね(^_^;)

特にこれと言った目玉が無かった由比ですが、明治時代に入ってから、一躍その名が全国に知られることとなります。
それは偶然発見された「桜エビ」の存在です。桜エビは、駿河湾でしか獲れないそうです。
江戸時代とは関係ありませんが、ご紹介させて頂きますね。

「明治27年のある日、地元漁師がアジ漁に使っていたアミをしまい忘れ、一晩放置してしまった。
その間にアミは海の深くまで潜ってしまい、翌朝引き上げた時に小さなピンク色のエビが沢山かかっていた…。」

この偶然を機に、由比は桜エビ漁で一躍有名になった、ということなんです。

江戸時代の名物ではありませんが、現在由比の街では桜エビを使った料理屋を見かけることが出来ますので、気になる方は是非、行かれてみて下さい!

それでは今日はこの辺で。

由比宿の人口(天保14)713人、家の数160軒

名物:サザエの壷焼き、アワビの刺身

最寄駅:JR東海道線・由比駅

こんにちは令和& 東海道を歩いてきました(その15)(良太郎)

良太郎です!
さぁ、新しい時代がやって来ました!去る平成時代も様々な面で変化は大きかったですが、新時代は更に何倍も大きな変化がありそうな予感がしています。これが良い変化であるように、日々願い、頑張っていきたいと思います。

それでは毎度お馴染みの、良太郎東海道シリーズ。記念すべき新時代幕開けを飾る宿場は……?
ドン!第15弾、蒲原です!派手に飾って頂きましょう!!それでは、始まり始まり~(≧▽≦)ノ.+゚

15.蒲原(静岡県静岡市)

内陸に移転した吉原宿を抜けました。現在は富士市街地となっており、車も多く市役所始め、マンションなど大きい建物も見られます。

住宅街を歩いて行くと富士川にぶつかり、橋を渡ります。勿論、江戸時代は渡し舟でした。
富士川は山梨県から流れており、江戸時代は海と内陸の産物を運んだ舟が盛んに行き来していたようです。
それに加えて東海道の渡し舟まで往来していたのですから、この辺りは相当賑わっていたんだろうと推測されます。

川を渡るとすぐに東海道は丘を登り、景色は一変します。電気はこの川を境に60ヘルツとなります。畑が現れ山はすぐそば、上り下りやカーブの多い道になります。

江戸時代の人々もしんどかったのでしょう。「間の宿」という休憩専用の地域(村)が設けられ、名物の「栗の粉餅」を茶店などで注文し、一服していたようです。

丘を下り、平地に下りると間もなく蒲原宿に入ります。
蒲原宿は設立当時はもっと海側にありましたが、津波の被害を受け、丘の近くまで所替えをしました。丘を下って間もなく宿場に入るのはこのためです。

蒲原宿は江戸時代、富士川の舟運の基地として大変栄えた宿場になります。
江戸時代の建物も東海道沿いに保存され、現代の東京から歩いて来ると、江戸時代の残り香を感じられる初めての宿場になるかもしれません。

蒲原宿の人口(天保14)2480人、家の数509軒

名物:栗の粉餅(間の宿岩淵村)

最寄駅:JR東海道線・新蒲原駅

平成を振り返って& 東海道を歩いてきました(その14)

良太郎です!
早いもので、もう平成も残すところあと僅かとなってしまいましたw(゜o゜)w
皆さん、平成の時代はいかがでしたか?僕はこの30年間、楽しいこと耐え難いこと迷いなど様々ありすぎましたが、こうして平成最後の数年間はSPADAに所属出来、皆さんと出会って前向きに過ごしていることを考えると、結果オーライで平成は僕にとって良い時代だったと思います。
お裾分けをさせて頂きたいので、皆さん是非是非SPADAにお越し下さい!
平成年間の総括であまり良い結論の出なかった方も、SPADAにお越し頂いて是非是非時代の最後を華々しく飾って頂ければと思います!

それでは良太郎お決まりの東海道シリーズ、平成最後を飾ってくれるのは第14弾、吉原です!一体どんな宿場なのでしょうか!?ワクワクします!それでは、始まり始まり~(≧▽≦)ノ.+゚

14.吉原(静岡県富士市)

沼津より海に沿って長く真っ直ぐ伸びていた道ですが、JR吉原駅の直前で急に右に曲がり、内陸へと入っていきます。
この辺りは江戸時代、東海道で江戸から京都に向かう際に、右手に見えるはずの富士山が左手に見えるという珍しいポイントになっており「左富士」と呼ばれていました。

吉原宿は、元々は海の近くにあったのですが、相次いで津波に襲われ二度移転した宿場になります。移転に伴って道を曲げたため、一時的に「左富士」になる区間が出来たという訳です。

一番海に近い、元々の吉原宿は「元吉原」、次に移転したのが「中吉原」、更に移転した先は「新吉原」と言われるようになったということです。

かつてこの辺りは「浮島ヶ原」という沼地で、ヨシが茂っていたところから「ヨシの原っぱ」吉原となったそうです。
沼津よりずっと沼地絡みでしたが、ここでやっと浮島ヶ原とお別れになります。

さて、次回からは令和の御代よりお届けとなります!
皆さん、ごきげんよう(^o^)/

吉原宿の人口(天保14)2832人、家の数653軒

名物:駿河半紙(これが現代の富士市の製紙産業の基になった)

最寄駅:岳南鉄道線・吉原本町駅

東海道を歩いてきました(その13)(良太郎)

良太郎です!
早いもので、もう4月も後半となってしまいましたw(゜o゜)w
皆さんは新年度、いかがお過ごしでしょうか?
今年は何だかおかしくて、つい最近まで寒い日もありましたが、気付けば桜も葉になりつつあり、変則的ではありますが確実に季節は進んでいるようです。
仕事に一息ついたら、是非是非SPADAへお越し下さいませ(^o^)/

さあ、またまたやって参りました!良太郎の東海道シリーズ。今回は第13弾、原です。それでは、始まり始まり~(^^)

13.原

整備された沼津の街を抜けると、東海道は海岸線に沿って真っ直ぐ伸びていきます。海岸線には「千本松原」という松林が沿っていて、その200m程内側を東海道が通っている感じです。

江戸時代はこの辺りは「浮島ヶ原」と呼ばれる広大な沼地で、人が住むのに向いていない土地でした。沼津も原も、この土地の状態を表して名付けられたものです。
江戸時代から明治にかけて「スイホシ」と呼ばれる干拓事業が盛んに行われ、多くの犠牲を払いながら徐々に田畑へと変わり、現在に至っています。この辺りに「○○新田」という地名が多いのはこのためです。

さて、昔は沼地で何も無かった原宿ですが、自慢出来るものが二つあります!
まずは景色。浮島ヶ原の大自然の後ろに大きな富士山がそびえている姿は、江戸時代東海道の絶景ポイントの一つだったようです。
そしてもう一つは白隠というお坊さん。原の出身で、メチャ偉いみたいです。

原宿は富士山からの湧水が豊かな所で今も水が湧き出し、地元で豆腐や酒作りに使われているようです。
江戸時代の名物は鰻の蒲焼!浮島ヶ原で捕った鰻を綺麗な水に2~3日つけておくと泥臭さが取れ、とても美味しいものになったようです。

さて、次回は海岸線に並行して浮島ヶ原を進み「吉原」に行きますよ(^o^)/
お楽しみに!!

原宿の人口(天保14)1939人、家の数398軒

名物:鰻の蒲焼

最寄駅:東海道線・原駅

東海道を歩いてきました(その12)(良太郎)

3月になりました!良太郎です。
時々寒い日もありますが、梅が咲いて気温も少しずつ上がり、日没も遅くなっていよいよ春も間近のように感じます(*^^*)
スパーダの最寄り駅、大阪天満宮駅の地上には梅が街路樹になっている区間があり、とても綺麗です。
是非是非、梅を見がてらスパーダにお立ち寄り下さいませ(^o^)/

さあ、またまたやって参りました、良太郎の東海道シリーズ。今回は第12弾、沼津です!それでは、始まり始まり~(^^)

12.沼津

大変賑わった三島の宿を後にし、東海道を京へと上って行きます。

途中、水がメチャメチャ綺麗な「柿田川湧水」があります。本当に、本当に綺麗です!是非、立ち寄って頂きたい!!
今は公園になっていて、遊歩道も整備され、湧水を使ったコーヒーやスイーツが売られています(^^)
この辺りは富士山からの地下水が湧いており、私達が目指している次の宿場「沼津」も、湧水のため辺り一面が「浮島ヶ原」と呼ばれる沼地だったことから名付けられています。

さて、沼津宿に着きました。江戸時代は鰹漁が盛んで、鰹節の生産量は日本一でした。今は道路が広く、近代的な街並みです。
沼津は明治以降、軍都として栄えた為、大戦中は米軍から格好のターゲットとなり、8回に渡って空襲を受けました。その為、歴史を感じさせる物は残っていません。

沼津を抜けると「千本松原」と呼ばれる松林に沿って東海道は続いています。次の宿場は、水の綺麗な「原」になります。お楽しみに!

沼津宿の人口(天保14)5346人、家の数1234軒

名物:鰹節

最寄駅:東海道線・沼津駅

東海道を歩いてきました(その11)

2月になりました!良太郎です。
毎日寒いですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?僕は昨年末、すでにインフルエンザにかかっているので、安心して日々を過ごしております。
皆さんはこれからがピークのインフルエンザ、十分にお気をつけ下さいませ。

さあ、またまたやって参りました、良太郎の東海道シリーズ。今回は第11弾、三島です!それでは、始まり始まり~(^^)

11.三島

箱根の関所を越えました。男性は女性と違ってチェックが緩いので、すんなりと越えられました。でも、チェックの際はやはり緊張しますね(^_^;

箱根の宿場を出ると、石畳の山道をどんどん登っていきます。さっきまで目の前にあった芦ノ湖も、随分と下になってしまいました。傾斜も急で、息が切れます。

…前回のブログで「箱根は東海道の制定当初は何もない所で、宿場にもなっていなかった」というお話をしました。では一体なぜ、こんな山の中に国の大動脈を通したのでしょう?

1,2,3,4,5,6,7,8,9,10。ピピー。時間切れ。

答えはズバリ、江戸を防衛する為。あえて通りにくい所に道を通すことで、仮に江戸を攻める者が現れたとしても、難儀をするんです。時間も稼げるので、その間に対策を立てられますからね。
だから江戸時代の東海道は、箱根のような難所も通るし、川にも橋を架けない。ちゃんと理由があったんですね。

散々上って下って、やっと下り切りました!
だんだん家が現れ、1km程進むと「三島宿」に入りました!久し振りの街で、ホッとした気持ちになります。

三島は東海道の中で唯一、伊豆の国にある宿場になります。
箱根を越えて来た私達にとってはやれやれと休息する宿場。そしてこれから箱根を越える人にとっては気合いを入れてしっかり休む宿場となっていました。
また、宿場の途中で下田街道&甲州道と分岐する、地図で見ると珍しい十字型の宿場になります。

宿泊客が多かった上に交通の要所ということもあり、大変賑わっていたようです。

三島宿の人口(天保14)4048人、家の数1025軒

名物:鰻、三島暦(みしまごよみ。今で言うカレンダー)

最寄駅:駿豆線・三島広小路駅

東海道を歩いてきました(その10) (良太郎)

新年、明けました。良太郎です!
昨年は皆さんに支えて頂いて、無事過ごすことが出来ました。
今年はリフレクソロジー(足裏)の資格を取ろうかなーと思っております。あと、手足を太くしたいです。
さあ、今年も頑張って参りますよー!どうぞよろしくお願い致しますp(^^)q

今年もやって参りました、良太郎の東海道シリーズ。今回は第10弾、東海道最大の難所、箱根です!それでは、始まり始まり~(^^)

10.箱根

小田原の宿を出ると、東海道は右に折れ、内陸へと入って行きます。箱根登山鉄道の線路に付かず離れず沿いながら、徒歩では気付かない程度の緩い坂を登って行きます。風祭、入生田を通り、湯本を過ぎた辺りから傾斜はきつくなっていきます。

やがて石畳の道が現れ、山の中を登って行きます。
さすが東海道最大の難所。なかなかキツいです。時々車道に出るのですが、なぜかホッとします。
自然に返りつつあるような道を進みながら、箱根の宿場に着きました。

ここには関所があり、入り鉄砲(江戸に武器を持ち込ませない)・出女(江戸に住む地方大名の奥さんが逃げないようにする)を取り締まっていました。手形(パスポート)無しに勝手に抜けた者は磔で処刑されます。

箱根は、東海道制定当初は何もない所で、人も住んでいませんでした。従って宿場ではなく、小田原の次は三島になっていました。ところが、これではあまりに負担が大きいので、間に宿場を作ることになったのです。
小田原と三島からそれぞれ50人ずつ連れて来て、住まわせました。
これが箱根宿の始まりです。

箱根宿の人口(天保14)844人、家の数197軒

名物:寄木細工